はしりがき

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デッキの構造

デッキの構造、という概念があります。「~で・・・をサポートして、ここはこのカードでカバーして・・・」というものです。デッキ構築時には不可欠と言ってよいものだと思いますが、そもそも「デッキの構造」とは何でしょう?
一度ラディカルに考えてみましょう。カードプールがあります。カードプールを構成するカードをすべて四倍に増やします。その中から40枚を選ぶことでデッキが作られます。ここでデッキとは、単に40枚のカードの集合に過ぎません。もう一度問います、構造とは何でしょう?
私は少なくとも、「手に負えないものを手に負えるようにする簡単化」の機能を果たすものだと考えています。どんなカードを積むとどんなふうに勝率が変化するのかは手に負えないもので、だからこそ「構造」を用いて手に負えるものにする必要があるということです。
「構造」イコールこれだ、という定式化は難しいのですが、構造がその機能を遂行する上でよくあるパターンが「役割分担」+「再結合」です。「これは対速攻用のカード」「これはハンデス対策」「これは・・・」という役割分担的な思考をベースにした上で、それらの相性や整合性を「後で」考える、という手法。これに外れる「デッキ解説」を見たことがない、という経験からすると、「よくある」ではなく「普遍的な」と言ってしまってもいいかもしれない。それほどのものです。
この2つ──「役割分担」と「再結合」──のうち、「再結合」について一般論を組み立てるのは難しいと思われます。なぜか。「役割分担」は「ドロー」「ハンデス」のような抽象化されたカードが活躍する場なのに対して、「再結合」は「これとこれの相性が・・・」というふうに具体的なカードが深く関わってくるからです。むしろ「カードプールに半分依存する」という方針にマッチした「役割分担」について多くを語るべきでしょう。

ここで「役割分担」の役割について語るのが本筋でしょうが、これは後回しにします。上記の内容と平行して、少し話しておくべきことがあるからです。
それは「構造はいかにして形成されるか」という問題。つまり「デッキはいかにして構築されるか」ということです。これにも「手に負えないものを手に負えるようにする簡単化」の原理があって、それは「コンセプトを決めてからデッキを組む」こと(詳しくは「構築論」参照)。これ以外にも「手に負えなさ」を引き受ける技術があるのかもしれませんが、ほとんどは「コンセプトを決めてから「「不足要素」を補うような「相性の良いカード」の構成」を作り続ける」方法に当てはまっているように思います。
この構築方法がもし普遍的なものだとすると、デッキ内のカードの役割に、次のような性質が見出せるのではないでしょうか。すなわち、コンセプトそのものではないカードについて「コンセプトまたは仮想敵に対して受動的」である、こういう性質。「仮想敵」というのは前述の構築論では出てこなかった概念ですが、ここで対戦相手ありきの話にするために拡張的に導入しています。
「受動的」とはどういうことか。「コンセプト」に対しては「~を補う」「~を生かす」という、「仮想敵」に対しては「~対策」という、常に「コンセプト」「仮想敵」という「凸」に対する「凹」としての役割を持つ、ということです。こう言うと、すべてのデッキが平均化するような印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。より尖ったデッキになろう、というのは「コンセプトを生かす」という言い方で、やはり「受動的」の一形態にすぎません。

まとめておきます。
まず原理として「手に負えないものを手に負えるようにする簡単化」があります。簡単化原理と呼ぶことにしましょう。
その上で、「デッキの構造」とは「役割分担」+「再結合」という手法で簡単化原理を実現する機能を持つもの。これは「コンセプトを決めてから「「不足要素」を補うような「相性の良いカード」の構成」を作り続ける」という、やはり簡単化原理を踏まえた方法で構築されます。
この「デッキの構造」の構築過程から、「役割分担」の「役割」について「コンセプトとなるカード」か「コンセプトまたは仮想敵に対して受動的」かのいずれかの性質を持つことがわかります。
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デッキの機能

カードは、それ単体では「人の手に負えない」というのが出発点です。あらゆるカードのすべての組み合わせと、それらの対戦結果をすべて計算することは誰にもできません。コスト、文明、効果、・・・といった「生の情報」はあまりにも多くの事実を示唆してしまうために、そのすべてを把握することはできない、「人の手に負えない」のです。しかし現実には、程度や技術の差こそあれ、それに似たようなことをしようとしている(と思っている)人ばかりです。では「バカばかり」なのか。違います。完璧とはいかなくても、「あらゆるカードのすべての組み合わせ」を考えようとした人ほど精度の高い「計算」が実際にできています。到達することはできなくても、近づくことはできるわけです。
ここに一つの問いが生じます。「カードは、それ単体では「人の手に負えない」」。しかし現実には「人の手に負える」ものとして考えられています。ではいかにしてカードは、「人の手に負えない」ものから「人の手に負える」ものに作りかえられるのでしょうか。
ここにデッキが関わってきます。対戦ゲームとしてのカードゲームにおいて、対戦外において何かが起きることはありません。したがって対戦内での評価がすべてです。そこには「デッキ」が関わらざるをえないのであり、したがって「そのデッキにとってどう役に立つのか」という視点を欠くことはできません。これこそが、「人の手に負えない生の情報」を「人の手に負える」ものにする、簡単化を可能にするメディアです。すなわち、「プレイヤーがカードを見るとき、「何のデッキの役に立つのか」「何のデッキに入るのか」という視点が必然的に存在する」ということです。他の視点からカードを見ることもできますが、この「何のデッキに」という視点だけは絶対に欠くことはできません。
これは何を意味するのか。「ドロー」「ハンデス」「マナブースト」・・・と様々なカード・タイプについて、「ドロー」の性質はこれこれだ、という言い方はできないということです。「~のデッキタイプにとって」「ドローはこれこれだ」という言い方でなければならない。生の、内奥的な、連続的な、動物的な、無限性の空間にあるカードを、加工された、手が届く、離散的な、人間的な、有限性の空間に引き入れること、これがデッキのカードに対する機能です。

なんとか力

1、「強い」か「弱い」か「普通」か。一元的思考
向き不向きという概念がない。だから「なんとか力」と言うだけで「なんとか力がないヤツはダメだ」と暗に脅迫することになる。部分的ではあるが、絶対化の思考がここにある。

2、バズワード性
「なんとか力」って何だよwって言われて言葉に詰まる。こういうの。具体的な意味がないのはもちろんだが、そのことが問題視されていない、されていないから言葉に詰まる、という「○○とは何か」という問いの欠落。「○○とは何か」という問いの先にあるのは、宮台真司の言う「底が抜ける」ってヤツなんだろうか。

3、なんとか力=「対象化という攻撃に対する、神格化=補足不能化という自己防衛機能を有した言葉」ではないか。

4、おわり
「なんとか力」そのものではなく、「なんとか力って何だよ」という「○○とは何か」というタイプの問いがなされないことが問題。山本七平の言う「水を差」せない状態?新世紀なのに世紀末だから仕方ないな。


コミュニケーション教

1、彼を崇めよ。
2、彼の望みは、自己の再生産である。
2-1、真理の希求は異教の信仰であり、捨て去るべきである。
2-1-1、「嘘はいけない」「誤解は解かなければならない」といった教義はいますぐ捨てよ。
2-2、彼がコミュニケーションそのものを望まれているとは限らない。彼はコミュニケーションを再生産するようなコミュニケーションは望まれているが、そうでないコミュニケーションは望まれていない。
3、彼は空想上の世界で閉じた存在ではなく、現実の世界に作用する力を持っている。
3-1、彼を信仰すれば、あなたは富を得る契機を得るだろう。
3-2、不信神者は地獄に落ちる。これは現実に起きている事実である。
4、信じるだけで救われると思うな。厳しい修行を経た者だけが救済される。
4-1、不信神者、および修行の足りない者は地獄に落ちるであろう。
4-1-1、救済されないことによって、という消極的な意味ではなく、彼によって積極的に地獄に落とされるであろう。
5、物差しを与えよう。コミュニケーションの再生産に寄与するものは「よい」ものであり、しないものは「わるい」ものである。
5-1、富の取得はコミュニケーションの再生産に寄与するので、よいことである。
5-1-1、富の獲得がコミュニケーションの再生産につながり、コミュニケーションの再生産が富の獲得につながる。この正のフィードバックループは大いに推奨されるものである。
5-1-2、富の獲得自体はコミュニケーションを再生産するが、富を得る過程でコミュニケーションの再生産に寄与しないものは許されない。
5-1-3、富を得る手段としても、やはりコミュニケーションを再生産するような方法をとらなければならない。
5-2、アンテナの感度の鈍い者もいるから、彼はマスメディアを作られた。
5-2-1、マスメディアの提供する情報を知らないものはいない。そのように考えることを、彼は赦してくださる。
5-2-2、マスメディアはよい情報のみを発信する。
5-2-3、したがってコミュニケーションの再生産に寄与しないものは、やり方を知らないのではなく、知っているのにあえてやらない不信神者である。
5-2-4、よってコミュニケーションの再生産に寄与しない物はすべてわるい者であり、地獄に落ちる運命である。
6、供物を捧げよ。供物とはあなたの時間であり、あなたの思考スペースであり、あなたの精神的な安楽である。
6-1、自分の時間、あるいは思考スペース、あるいは精神的な安寧のためにコミュニケーションの再生産をしない物は地獄に落ちる。
6-2、ただし、休憩としての、つまり長期的なスパンで見た場合にコミュニケーションの再生産に寄与するような行為は背信行為とは見なされない。

日本語の再習得(1)

思いつきしだい追加。あと山本七平「「空気」の研究」「「常識」の研究」とか。100%自分用。

偏見
傾向=本来マクロな系(民族とか)に適用すべき概念をミクロな系(個人とか)に適用して対象の性質を推論すること。特に、それによって間違った認識が生じる場合に使われる。ただし(少なくとも)日本では「対象の臨在的な把握」をしていないにもかかわらず対象の性質を推論すること、という意味でも使われる。このため「対象を臨在的に把握」していさえすれば、内容の正誤を問いただされることはまずない。逆に内容が正しくても「対象の臨在的な把握」がなされていねければ、表立った反論はされないまでも、物言いたげな顔をされる可能性がある。

性質
日本的平等主義においては、個人差の原因を情況の差異に帰属する。人や物の性質は「情況の差異」として説明され、この遡及運動は「「情況の差異」=前提」から「「性質の差異」=結論」への論証の形をとる。このため、商品について言えば「製造・流通過程」が、人間について言えば「家庭環境(価値観・考え方などの根本的なことにかかわるもの)」「経験(過去の情況に帰属できる)」が重視される。「情況の差異」に落とし込む論証を怠れば、商品なら「ワケあり」の「ヤバい」ものと判断され、人間なら、たとえば自己評価=他人との差異の言明の場合で論証を失敗すれば「傲慢」あるいは「メンヘラ」の烙印を押される(注意点として、自己の性質を情況の差異まで遡及して説明する行動は暗示的やること。明示的に説明する=韜晦はやってはいけない。この場合、自己を対象として捉えるさいの主語としての自己=真の自己は神でなければならないから、自己=神であると無意識的に考えているとみなされる=「何様のつもり?」。無意識を見抜いたという確信は他の何者によっても覆されないだけに、細心の注意が必要)。
本筋とは無関係ながら、次の結論も導ける:ちょうどこの文章のような、エラそうなことを言うためには、山本七平「「空気」の研究」をたまたま読んだから言えることだ、という言い訳を添えておく必要がある。

多態性ワード
昴用語。「多態性」とはオブジェクト指向言語というかC#の言葉。言葉は共有されなければ言葉たりえないので、「共有されうること」が言葉の必要条件になる。そして「共有されうる」言葉にするために、その意味を濁す・曖昧にすることが行われ、その成果物が「多態性ワード」(多くは巧みな抽象化の形をとる)。この結果、ひとつの言葉がいくつもの具体的意味を同時に持つことになり、どの「具体的な意味」でとるかは個人にっよって違う。このため話がねじれる原因となる(いわゆる言葉の綾)。単なる「抽象的な言葉」と違うのは、一見具体的な言葉に見えるところ。一番典型的なのは「○○力」ってやつで、たとえば「コミュニケーション力」と聞いて「あれのことだな」と思っていても、じゃあ「コミュニケーション力」って何よ、って話になると「集団に迎合する(適応する)能力」「コミュニケーションで相手を楽しませる能力」「相手の話を正確に理解する能力」と、人によってぜんぜん違う具体的意味が出てくる。つまり「コミュニケーションをうまく運ぶ力」として共有されていて、方法論とか評価尺度とかが濁されている。「○○力」以外では「頭の良さ」とかもこのタイプ。どの「具体的意味」を選択するかは、個人の価値観や目標とする理想像によるところが大きく、逆に言えば「コミュニケーション力とは何か」という論争は価値観披露大会となる。
多態性ワードが日本特有の言葉なのかは知らない。あと「言葉自体が抽象化のなせる業だろ」に対しては「相対的な意味で「抽象的」「具体的」という言葉を使っている」。

思いやり
見返りを期待した「元を正せば利己的な行為」、そこからくる「困ったときに助けてくれるのが友達」的なものかと思ったけど実感的ではないな。「「自分のことしか考えていないヤツだ」という謗り」という環境に対する構造的カップリングとしての「美化」の側面はあるんだろうけれど。
マルセル・モースのいうアニミズム的な価値観からくるポトラッチの世界、のほうが実感的。つまり二者間の関係ではなく、より広い人間関係の集合体──社会、から受ける評価・信用を気にしているってほうが妥当っぽい。そういや「空気」も「物神論」から来てるんだっけ。なんか関係ありそうか。
ただしアガペー=「隣人愛」=「隣の人を愛すること」と思われてる状態じゃ「思いやり」=「内輪の思いやり」ってのは絶対に押さえておかなきゃいけないポイント。「人間として」「日本社会」などという「言葉にしかならない(実体がない)」「宙に浮いた」「地に足が着いていない」「抽象的すぎる」ものは「臨在感的に把握」されない。・・・?いや、そんなことはないか。暫定的にそうではない、ってだけだな。その辺が不安定なぶん、余計に嫌になってくるけど。
・・・「パブリック」概念が「役に立つ」ものと認識される、その萌芽がどこかにないかなー、なんて。他力本願はダメだな。英語の勉強でもするか。

「因果関係の分析」の観察
例えば企業の採用ハードルが上がっている、というもの。ハードルが上がったから何だ、お前の行動に関係あるのか?いずれにしろ企業に気に入られるように履歴を積み上げるだけじゃないのか?ハードルは原因じゃない。企業の経営状態の「結果」だぞ。みたいな。「社会のせいにするな」ってのがコレだろうな。
ハードルを「原因」にしたがるということは、自分の行動をほぼすべて「企業に気に入られるような行動」に注ぎ込む気はない。そうでなければ話が行動まで落とし込まれていないことになり、だからどうしたの?となるから。
以上の話を抽象的に言えば、「どの因果関係を選択するか」によって、その人の「価値観」を観察する、という試み。
ああ、逆に言えば「社会のせいにするな」というのは、「自分の行動をほぼすべて企業に気に入られるような行動に注ぎ込む」のは当然だという、いつの時代だよという(暗黙の)前提があることになるね。

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